「どっか、行きたいとこあるか?」
 鴆がリクオにそう訊ねたのは、広いリビングで朝食後のコーヒーを飲んでいる時だった。
 突然の問いかけに目を瞬かせたリクオは、昨夜遅くまで愛されたおかげで少しばかり怠い身体を椅子に凭せかけて窓の外を眺めた。そうだなぁと呟いて甘いカフェオレにちびちびと口をつけてみても、今日はずっと家で過ごすのだとばかり思っていたのですぐには何も浮かんでこない。
「どこってわけでも、ねぇんだけど……」
 ただ、こんな日に家の中にいるのは勿体無いよな。
 そう言うと、鴆は確かになぁと笑いながら同じように窓の外を見やった。大きなガラスを通して入り込む陽光は眩しく、視界に映る空はどこまでも蒼い。外に広がるのは、休日に相応しい快晴だった。
「ならドライブがてら、どっかで花見でもするか?ちょうど桜も見頃だろうしな」
「あぁ…、うん、いいなそれ」
 桜、という言葉に微かに軋んだ心には気付かないフリをして、リクオはようやく適温まで冷めたカフェオレを飲み干し、こくこくと頷いたのだった。

 ◆

 車で二時間ほど走って着いたのは、小さな湖の畔だった。
 なるほど鴆の言った通り、湖岸の遊歩道の両脇に植えられた桜は一斉に開花して、ちょうど見頃を迎えていた。あちらこちらでシートを広げた人々が花見を楽しみ、並木の向こうに見える広場ではキャッチボールに興じる親子や走り回る子ども達の姿も見える。絶好の花見日和ということもあり、さすがに人が多い。ゆっくりできるような良い場所はないかと探しながら、のんびりと湖の周りを歩いていた二人が見つけたのは、花見客が溢れる並木道とはほぼ対岸に位置する場所にぽつんと植えられた立派な桜の木だった。 
 湖を臨みながらもひっそりと佇むその木の下には小さなベンチが置かれていて、周囲に人の姿は見えない。遊歩道からも少し外れたこの場所に、わざわざ来る者は少ないらしい。思わぬ穴場の特等席は、賑やかしい声を遠くに聴きながらただ静かに二人を迎え入れた。

 途中コンビニで買った遅めの昼食を食べ終えて一息つくと、春の日差しと満たされた腹とが相俟って次第に眠気が襲ってくる。ぼんやりと景色を眺めるうちにうつらうつらとし始めたリクオを見て、鴆が笑いながら肩に寄りかかるよう促した。
「はは、子どもみてぇだな。さっき買った甘いヤツどうすんだ?」
「うっせ。あれは後で食うから…勝手に食うなよ」
 昼食と一緒に買ったデザートを奪われては堪らないと釘を刺すと、誰も盗らねぇよとまた笑われる。
 暖かな日差しも、頬に感じる風も、寄り添った体温も、何もかもが心地良かった。眠るつもりはなかったが、耳朶に優しく響く声をもっと聴いていたくて、目を瞑ったまま他愛のないことをぽつりぽつりと話す。そうしてゆったりと流れる時間にリクオが再び微睡み始めた頃、不意に鴆が何かに気付いたように声をあげた。
「リクオ、花びらついてんぞ」
「え、あぁ、悪い……」
 すいと伸ばされた手を感じて目を開いた時には、鴆はリクオの髪から摘み上げた小さな薄紅を風の中に放していた。形の良い指先から離れた花びらを無意識に目で追いかけていると、つい今しがたその指が触れた箇所に別の何かが軽く押し当てられた。驚いて振り向くと鴆の顔が間近にあり、悪戯っぽく笑うその表情に、それが唇の感触だったことを悟ったリクオは言葉もない。
「……綺麗だな」
「……そう、だな」
 ただ恥ずかしくて睨みつけてみたところで、堪えた様子もなくそんなことを言うのもだから、リクオは憮然としたままそう応えるしかなかった。照れくささを誤魔化して目を逸らしても、頬に触れてくる鴆の指先に、集まった熱は確実に伝わっているのだろう。
 当の鴆はといえば不思議そうな表情をして桜を見やった後、すぐにあぁと頷き、おもむろにリクオの肩を抱き寄せた。
「桜もだけど…な、」
 耳朶に吐息がかかるほどの距離でそんな風に囁かれて、そこに含まれた意味をリクオが理解するのに、そう時間はかからなかった。更に頬の熱が上がったのを自覚して思わず身じろいだが、肩を抱く腕はそのままで、鴆との距離もそのままで、離れたくとも力を込められてしまえばそれもかなわない。
「は…っずかしい、ヤツ…!」
「おーおー。真っ赤だなぁ、リクオ」
 辛うじて吐き出した言葉にも、俺は思ったことを言っただけだなどと飄々と返す鴆にいよいよ居た堪れなくなり、リクオは覗き込もうとしてくる視線から逃れるように鴆の肩へと顔を埋めた。分かり易い照れ隠しに笑いながらも、鴆は宥めるようにリクオの背中を撫でる。こういった反応を返すから鴆が面白がるのだと、未だにリクオは気付かずにいた。

「それにしても…桜を見るとやっぱり思い出すよなぁ」
 まるで幼子を寝かしつける時のような優しい手つきに絆されて、リクオが落ち着きを取り戻した頃。再び口を開いた鴆は感慨深げにそう言った。いつまでも拗ねたようなこともしていられず、のろのろと顔を上げたリクオは鴆の視線を追って桜を見つめる。
「……思い出すって、何を?」
「入学式だよ、去年のな」
 そう答えた鴆の視線は桜に向かっているはずなのに、どこか遠くを見るような目をしていた。
 リクオとて、あの時のことはよく覚えている。満開の桜並木と、風に流れて舞う無数の花びら、そして、十年ぶりにまみえた幼馴染の姿。まるで一枚の絵のように記憶の中に貼り付けられたその光景は、思い返す度に遠い記憶と重なり、泣きたくなるほどの切ない感情を滲ませてはリクオを狼狽えさせた。こうして花見に来てはみても、やはりどこかで満開の桜は苦手だと思う自分がいる。その理由を思い出したところで過ぎた事実は何も変わらず、漠然とした不安は今も心の隅にわだかまっていた。
「……どうかしたか?」
 急に俯き黙り込んだリクオを不審に思ったのだろう。そう訊ねられたが、リクオは何でもないと首を横に振った。それに納得したわけではないのだろうが、鴆はそれ以上何も言わなかった。ただリクオの手に自らの掌をそっと重ねてきたので、その時になって初めて、リクオは自分が固く拳を握り締めていたことに気付いた。はっとして力を緩めると、鴆はするりと指を絡めてリクオの手を握り、そうか、もう一年になるんだなぁと嬉しそうに笑った。
「なぁ、リクオ」
 そうしてひどく優しい声で名前を呼ぶものだから、リクオは促されるままゆっくりと鴆の方へと視線を向けた。
「まだ先の話なんだけどな……、言っておきてぇことがあるんだ」
 少しばかり改まった態度に不安が頭をもたげたが、握り締めた手に鴆が力を込めたことでぼんやりとしたそれはすぐに霧散してしまう。リクオはただじっと、次の言葉を待った。
「卒業したら、一緒に暮らさないか?」
「…へ……?」
 ゆっくりと伝えられた言葉は、リクオにとってあまりにも予想外だった。思わず零れ出た間抜けな声に、鴆は苦笑いを浮かべながら更に続ける。
「本家から通える範囲の大学に行くつもりなら、俺の家でも大丈夫だろ?そうなりゃもう憚るもんもねぇ。俺はずっとリクオと一緒にいてぇと思ってる…リクオは、どうだ?」
 そこまで聞いてようやく、言われた言葉が現実味を帯びてじわじわとリクオの胸に染み渡ってきた。驚きが、その何倍もの喜びに塗り替えられていくのを感じながら、リクオは慌てて口を開いた。
「鴆、俺も……」
 家族や家の者にどう言おうかという心配がちらりと心を過ぎったが、どのみち大学を出れば家業を継ぐ身である。それまではせいぜい好きにさせてもらおうと、今この場でリクオは決めた。
「じゃあ、約束な。卒業したら、改めておめぇを迎えに行く」
「はは、なんかそれ、プロポーズみてぇ」
 気恥ずかしさに軽口を叩いてはみたものの、嬉しさは隠しようもない。それはまだ先な、などと冗談めかして笑った鴆の指が耳の後ろを撫でたのを合図に、リクオはそっと目を閉じた。触れ合い、唇を重ねることがこの上なく自然に思えるようになったのは、いつからだっただろうか。漏れる吐息を求めるように、離れては追いかけ、角度を変えて何度も互いを啄ばんだ。

   やがてゆったりと解かれた口づけにほうと息を吐いて、鴆に凭れかかり桜を見上げたリクオは、不意に覚えた違和感に首を傾げた。桜を目にする度に感じていた胸苦しさが、泣きたいような衝動が、不思議と静まっているように思えたのだ。満開の花を前に、リクオの心は驚くほど平らかだった。
「あぁ、そうか……」
 小さく呟いて、ずっと昔、嫌だと泣きながらも離すしかできなかった手を、その存在を確かめるようにぎゅっと握り締める。あの時とも、一年前とも違う。遠いと感じた背中は今はこんなにも近くて、そしてきっと、もう離れることはないのだと思えば、途方もない安堵が胸を満たした。
 そっと隣を伺ってみると、鴆もまたリクオを見ていた。思わず漏れた笑みはどちらが先だったのか。
 定かでないまま、二つの影がもう一度重なった。