正門へと続く並木道は、満開の桜だった。
 張り出した枝は薄紅色の雲をまとったようで、道行く者たちの頭上を覆っている。
 まだ冷たさを残す風が吹くと、今が盛りの桜花が一斉にざわめいた。真新しい制服に身を包んだ新入生の肩や髪へと花弁が舞い落ちる。
「若、」
 呼ばれてリクオが隣を見上げると、猩影の大きな手が頭へと触れた。
「髪に、桜が」
 一片の花弁が猩影の指先から放れ、ふわりと落ちていく。
「ああ、悪ィ」
「……綺麗ですね」
 小さく笑って、猩影は正面へと視線を戻した。
「……そうだな」
 入学式に相応しい晴れた空と、一面の桜。門出の日を祝うかのように咲く桜花は、確かに綺麗だとリクオも思う。
 けれど幼なじみの言葉に頷きながら、胸の何処かが微かに痛みを訴える。
 満開の桜は苦手だった。目にすれば、どうしようもなく気持ちが塞いだ。泣きたいような、子供じみた衝動に襲われて、いつも途方に暮れてしまう。
 なのに、何故そんな心持ちになってしまうのかは、もう思い出せない。
 ずっと昔、満開の桜の下で、誰かの裾を掴んで泣きじゃくった。そんなおぼろな記憶も頭の片隅にはあったけれど、いかにも頼りないそれは、ただの夢だった気もする。
「そういえば若、」
 何か言いかけ、そのまま言葉を切った相手に、リクオは首を巡らせた。目を瞠った猩影の、前方に向けられたままの視線を追えば、校門脇に立つ一人の男と目が合う。
 見覚えのある顔立ちに、鼓動が跳ねた。
 もう何年も会っていない。連絡すら取ってもいなかった。
 記憶の中の彼より、幾らか頬が削げただろうか。スーツにネクタイをきちんと締めた姿は、知らない大人のようにも見える。
 それでも、間違えるはずなどなかった。
 嬉しそうに笑う顔は、リクオが知る優しかった彼のものだ。
「リクオ」
「鴆!」
 駆け寄ったリクオに、鴆が笑みを深くする。呼ぶ声も、昔、耳に馴染んだ響きそのままだ。
「何だよ鴆。何でこんなとこ、」
「驚いたか?」
「そりゃあ……」
「大きく、なったな」
 伸ばされた手が、くしゃりとリクオの髪を撫でる。あやすように髪をかき混ぜると、頭に置いた掌はそのまま、鴆はリクオを覗き込んだ。
「約束しただろ。お前を、必ず迎えにくるって」
「え?」
「何だよ、忘れちまったのか? 薄情だなリクオ」
 楽しそうに目を細めて、鴆が笑う。
「今年からここに勤めることになった。よろしくな」
「はあぁ?」
 思わず大きな声を出したリクオに、鴆は満足気に口の端を上げてみせた。
「けど、鴆。……だって医者になったんじゃ、」
「ああ。だから、ここの校医なんだよ、オレは」
 もう一度リクオの髪を撫ぜて、鴆は名残惜しげに手を離した。
「もう行かねぇとな。保健室にいるから、遊びに来いよ、リクオ。……猩影も」
 視線を受けて、猩影が軽く頭を下げる。
「……聞いてないですよ、こんなの」
「言ってねぇからな。驚かせようと思って、口止めしてたんだよ」
 憮然とした様子の猩影に、どこか得意気に笑って鴆は踵を返した。
「あ、……鴆!」
 反射的に呼び止め、けれど振り向いた相手の姿に、リクオは言葉が続かない。
 いつか、ずっと昔。
 同じように鴆の背を呼んだ気がする。
 桜の花の満開の下、風の強い春の日に。
 鴆の背を、見送ることしかできずに。
「……学校では先生って呼べよ?」
「……あ、……」
 からかうような口調でそれだけ言うと、鴆は足早に校門の中へと消えた。その背を追って数歩踏みだし、見送って、リクオは大きく息を吐き出す。
「若、オレたちも急がないと」
 猩影に促されて、リクオは我に返った。
 ひときわ強い風が吹いて、辺り一面、桜の花弁が舞う。
 再会の嬉しさ、懐かしさに紛れて、一抹の苦さが込み上げる。胸に広がったそれが何かわからないまま、リクオは入学式へと向かう足を速めた。