「悪ィ! ほんっとーに悪ィ!」
「わーったって。いいから行けよ」
手を合わせる級友に苦笑して、リクオは早く行けと手を振った。拝むようにして彼が出て行くと、途端に部屋は静かになる。
剣道部の部室は、体育館棟一階の剣道場からほど近い場所にある。今日は居残り届けを出しての練習だったから、既に周りの部室に人気はない。
リクオは正式な剣道部員ではないものの、幼い頃から竹刀を握っていたため、稽古の相手や試合の助っ人を務めていた。試合が近いというので、ここ数日は稽古に顔を出している。
今日も特に級友に頼まれて居残り稽古をしていたのだが、部室に戻ってくると、友人には彼女からのメールが入っており、大慌てで着替えると飛び出していった。以前に約束をしていたのをすっかり忘れていて、怒りのメールが届いたらしい。
戸締まりを引き受けるくらいまったく構わないものの、一人取り残されてしまえば思い出すのは鴆のことだった。道場に通い詰めで恋人とまともに会っていないのはリクオも同じだ。
不思議なもので、ここ数日は日中たまたま顔を合わせることもほとんどなかった。どうしても会いたければ保健室に行けばいいとわかっている。けれど、休み時間も友人に付き合ったり剣道部の打ち合わせが入ったりと忙しく、それに何より、付き合うようになった今となっては、あまり校内で一緒にいるのは憚られた。
会いたい。
少しでいいから話がしたい。
今度の試合が終わるまでは我慢しようと決めたけれど、想ってしまうのはどうしようもない。
無意識に、指が唇に触れた。耳に残る、自分を呼ぶ鴆の声を呼び返す。 最後に二人だけで会ったのはいつだっただろう。
最後にキスしたのはいつだっただろう。
最後に互いに触れてから、どのくらい経っただろう。
いつのまにか着替えの手が止まっていたことに気付いて、苦笑した。早く部室の鍵を返しに行かないと、届けを出した時間も過ぎてしまう。
急いで胴着を畳んでいると不意にノックの音が響き、リクオは驚いて振り返った。 返事を待たずに空いたドアから顔を覗かせたのは、他でもない鴆だ。
「ぜ……先生!?」
「頑張ってるな。そろそろこっちの棟は鍵かけられるぞ」
ドアを後ろ手に閉めると、鴆はそのままドアに背を預けた。なぜ鴆がここにいるのかわからず、リクオはしばらくぶりの相手をまじまじと見てしまう。
「ほら、ぼんやりしてないでとっとと着替えろ」
「あ、……おう」
促されて、リクオは慌てて制服を手に取った。
「今度の日曜が試合でさ、」
「ああ、そう言ってたな」
着替えながら、つい言わずもがなのことを口にしてしまう。鴆には、連日の稽古に参加し始める前、しばらく放課後は会えないと言ってあった。
「三年が引退してすぐの試合だし、皆気合いが入ってて、」
「ん、」
顔を上げれば、鴆が聞いているというふうに頷く。
「稽古もすげえ集中してて、」
「みたいだな」
「え?」
見てきたような口ぶりに目を瞠ると、鴆は小さく笑った。
「実はさっき、道場も覗いたんだよ。お前の真正面で見てた」
「……全然気付かなかった」
「ちょっとだけだけどな。集中してたんだろ」
目を細めた鴆になぜか気恥ずかしくなって、リクオはそそくさとシャツのボタンを留めた。手元に視線を落としていても、鴆がこちらを見ているのは感じられて、ひどくこそばゆい。
わざわざ稽古を見に来てくれたのかと思うと、胸の内を温かなものが充たした。嬉しさに頬が緩んでしまいそうになるのを堪えて、身支度を調える。
会いたいと、少しでいいから話がしたいと、鴆も思ってくれたのだろうか。
恋人になっても、歳の差が縮まる訳ではない。
好いてくれているのはわかっていても、大人の鴆はどこか余裕に見えて、自分だけがいっぱいいっぱいな気がしていた。
「リクオ、急げ」
着替え終わったと見るや急かされ、リクオは慌ててカバンを掴んだ。壁に掛けられた鍵を取り、ドアの前まで行ったものの、鴆が外に出る様子はない。
「先生?」
リクオが訝しげな声を出したのと、鴆がリクオの顎に指をかけたのは同時だった。
唇が、重ねられる。
不意打ちの口付けは触れるだけの、けれど長いもので、鴆のもう片方の手が、優しくリクオの背へと回される。ゆるゆると撫でられれば、自分がどれほどその手に焦がれていたか、思い知らされた。
ただ触れているだけなのに、感じる鴆の体温に胸が苦しくなる。鍵を持ったままの手で、リクオは鴆の白衣を握り締めた。
静かに顔が離れて、間近で目が合う。
「日曜まで、頑張れよ」
笑った顔が名残惜しげに見えるのは、気のせいだろうか。それとも、自分も今そんな顔を鴆に向けているのだろうか。
「さ、出るぞ」
何かを振り切るように言うと、鴆は無造作にリクオの頭を撫ぜた。
「やめろって。汗かいて汚ぇし、」
「んなことねぇよ。遠慮すんな」
身をかわそうとするリクオを逃さず、ますます乱暴に鴆の手が髪をかき混ぜる。
「やーめーろって言ってんだろ」
廊下に出て、鍵をかける最中もいいように撫ぜられて、すっかり髪はぐしゃぐしゃだ。
「鍵よこせ。置いてきてやる」
「いいのか?」
片手を差し出す鴆に、一瞬リクオはためらった。
一緒に、帰りたい。
舌先まで出かかって、けれど、一緒に帰ったらそれだけでは我慢できなくなる。
「構わねぇから、早く帰れ」
リクオを待たず、伸ばされた鴆の手が鍵を取り上げた。
「送ってってやりたいとこだが、それだけじゃあ済みそうにねぇし、」
苦笑気味の鴆の科白はリクオの気持ちを見透かしたかのようで、鼓動が跳ねる。
「そうなったらきっと、朝まで離してやれねぇ」
二人きりのときにだけ見せる思わせぶりな笑みに、リクオの頬は赤くなった。
「お前は朝練だってあるんだろ」
「……ああ、」
こくりと首を縦に振ると、鴆も頷く。
「昇降口まで送ってってやるよ。今日はそれで許せ」
「ん、」
並べば、ごく自然に手を取られた。指を絡められ、ぎゅっと握り締められる。
非常灯だけがついた廊下を、手を繋いで抜けた。いつもは遠く感じる昇降口までの距離はひどく短くて、すぐに着いてしまう。
もう一度、鴆の体温を感じてから、リクオは手を離した。
「じゃあ、な」
「気を付けて帰れよ」
数歩行って振り返れば、まだ鴆は同じ場所に立ったまま、こちらを見ていた。
手を振ると、笑って手を振り返される。
リクオも笑って、踵を返した。
もう、振り返りはしなかった。
(了)