「あれ、どれだっけなぁ……」
夕焼けの余韻を残す空を窓の外に見ながら、リクオは薄暗い教室で一人自分の机を漁っていた。
つい先ほどまで、半ば溜まり場のようになっている部室で活動熱心なイタクを相手に将棋を指したり淡島と喋ったりしていたのだが、さて帰ろうかと昇降口まで来た時にふと課題の存在を思い出した。たしか提出は明日までだったはず。しかも肝心のノートと問題集は教室に置きっぱなしにしていた気がする。一応カバンの中を覗いてみたが見当たらず、リクオはその場で友人たちと別れ教室へと戻ったのだ。
すぐに出るからと電気を点けることもしなかったため余計に時間がかかったが、ようやく目当ての物を探り当ててリクオはやれやれと立ち上がった。薄暗い中でごそごそしていたら、不審者もいいところだ。早く帰ろうとカバンをかけ直したリクオは、足早に教室を出たところで唐突に声をかけられ思わず肩を震わせた。周囲に誰もいないと思っていたのだから、びっくりもする。
振り向くと、怪訝な表情をした鴆が立っていた。
「先生……」
脅かすなよ、と言いかけてやめた。からかわれるのがオチである。代わりに少しばかり恨みがましい視線を向けておいた。
「やっぱリクオだったのか…、どうした?もうとっくに下校時刻過ぎてるぞ」
「あ、いや、忘れ物取りに来ただけだから……」
先生こそ何でここに、と訊ねると、偶然リクオが一人で階段を上がっていくのが見えたのだと言う。いつもつるんでいる面子は先に帰ってしまったようだし、どうかしたのかと様子を見に来てくれたらしい。
わざわざそんな、とは思ったが気にかけてくれたのだと分かるとやはり嬉しい。素直に礼を言うと、笑って頭を撫でられた。子ども扱いするなと言いたいのをぐっと堪えて受け入れた手は、やはり今になっても大きく温かかった。
もう帰らなければと言ったリクオに合わせて、二人並んで昇降口へと向かった。
鴆はまだ仕事があるので一緒には帰れない。リクオも、わざわざ取りに戻った課題を仕上げなければならないので大人しく帰るほかない。廊下には他に人影もなく、歩みは自然と遅くなった。並ぶ肩は普段よりも近くて、時折掠める指先がくすぐったい。そのうちに、こつんと触れた指をそのまま絡め取られて、リクオは慌てて隣を見上げた。
「ちょ、ぜ…、先生!」
「大丈夫だ、誰もいねぇよ」
誰かに見られたら、と続くはずだった言葉は、しかし簡単に遮られてしまった。でも、と言い募るリクオの顔が紅いのは薄暗い中でも十分に分かるのだろう。結局は恥ずかしいだけなのだとばれているから、絡めた指先には遠慮なくぎゅっと力が込められた。そのまま優しく手を引かれて、いつの間にか止まっていた足を動かす。
繋いだ手を揺らしながら他愛の無い話をして、ついでに週末の予定を決めたところで昇降口へと着いてしまった。
さして長くもない道のりを随分と長くかけて歩いたのに、それでも名残惜しいばかりでなかなか手を離せない。そのまま靴を履き替えて、のろのろとスニーカーに踵まで押し込めたリクオが顔を上げてようやく、絡めた指がゆっくりと解けていった。
「じゃあ、」
仕事頑張れよ、とか、またな、とか。そんなことを、言おうとしたのだと思う。
しかしいきなり下駄箱の陰に押し込まれ、あ、と思う間に唇を塞がれて、全て頭から飛んでしまった。誰かに見られるとまずいと分かってはいても、触れ合う唇の温もりを、時折漏れる吐息の甘さを感じてしまえば拒むことなど到底できない。
一応は隠れているから大丈夫だと心の中で誰にともなく言い訳をして、リクオはそっと鴆の背に手を回した。
軽く触れるだけの口づけを何度も繰り返し、じゃれあうように互いの唇を啄ばむ。 時間にしてみれば僅かな間だったのだろう。それでもこれ以上は、本当に離れ難くなってしまう。
同じ危惧を鴆も抱いたようで、薄く開いたリクオの唇を柔く噛んでゆっくりと身体を離した。最後の悪戯にびくりと小さく震えると、宥めるように頭を撫でられた。
「今夜、電話するから」
「ん、わかった……」
目を細めて優しく笑うその表情は、二人きりの時にだけ見せるものだと知っている。それが嬉しくて、少し照れくさくい。
頭を撫でていた手が頬を滑って、最後にもう一度だけ唇が重なった。
「時間、分かったらメールしてくれ」
「あぁ、それまでに課題終わらせとけよ?」
「わーってるよ」
じゃあな、と軽く上げられた手に同じように返して、リクオは校舎を後にした。
夜風は火照った頬を少しずつ冷やしてくれたが、ドキドキと落ち着かない鼓動はしばらく治まりそうになかった。たった今別れたばかりなのに、早く声が聞きたいと思ってしまう。
少しでもゆっくり話せたらいいな。
そう考えて思わず緩んだ口元を押さえた手には、未だ彼の温もりが残っていた。
終